鹿行偉人伝その10~鉄道大臣、内田信也~

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機関車に乗り込む鉄道大臣時代の内田信也

 行方郡麻生町出身の経済、政治、教育界に多大な貢献をした偉人。内田信也(のぶや) は旧麻生藩主、内田寛氏の六男として明治13年麻生の地に生まれた。信也が6歳の時一家は移転のため、麻生の天王崎から高瀬舟に乗って横利根川から利根川に入り、東京に向かった。

 正則中学・麻布中学から一ツ橋高等商学校(現在の一橋大学)に入り、ボート(部主将)と柔道(5段)に熱中した。幼少時体の弱かった信也の体力は、この二つの運動によって回復していった。

 大学卒業後、信也はまず実業界で兎角を現わしていった。三井物産に入社、まもなく欧州で大戦が避けられそうもないとみるや、同社を退職し神戸に内田信也事務所、内田汽船を立ち上げた。戦争になれば運送船が足らなくなると見込んで、船を借り入れそれを他社に貸し出すことを繰り返し莫大な利益を得、60隻の所有船をもって横浜に内田造船所を設立した。須磨明石に柔道場付きの「内田御殿」も立てた。大正時代に入り、鹿行地域は船から鉄道へと交通手段が大きく変わろうとしていた。

 信也は行方縦貫鉄道計画の実現を目指していたが、ライバルがいた。高柳淳之介だった。彼は要村(現行方市北浦)出身の実業家で代議士であった。彼が中心となって、大正10年行方鉄道株式会社が設立され、昭和4年念願の石岡から鉾田(鹿島郡役所あり)まで全線開通したのを契機に、社名を「鹿島参宮鉄道」と改称した。

 内田信也は政界人としても活躍した。大正13年農商務大臣高橋是清は、鹿島農学校の石碑に「陰本」という題字を揮毫きごうした。現在鹿島高校体育館の左前方にある「茨城県立鹿島農學校記」がそれである。信也は高橋是清に会い、その意気に感じ「憲政擁護の士」たらんと、政友会に入った。衆議院選挙に出馬して当選し、以来戦前戦後をはさみ9回当選を果たした。昭和9年岡田啓介内閣時に信也は鉄道大臣に就任する。一番大きな仕事は、下関と門司を結ぶ「関門海底トンネル」の工事だった。実現すれば本州と九州がダイレクトに結ばれ、日本経済の大動脈となる国家プロジェクト事業。それを見事成功に導いていったのである。

 もう一つ見逃せないのが、教育界における貢献である。大正7年旧制水戸高校(現茨城大学)校舎建設資金の全額=百万円(現数十億円)を寄付した。2年後の9月1日より授業が開始され、200人の前途有望なる学生が学び始めた。また昭和4年には、郷里麻生町に旧制麻生中学校(現県立麻生高校)設立に物心両面の支援をした。(小沼聡「旧制水戸高校・生みの親 内田信也」『鹿嶋史叢 第20号』)
昭和43年茨城県より特別功労者として表彰され、その3年後の昭和46年、90歳の生涯を閉じた。

晩年の内田信也

文 鹿嶋古文書学習会 鹿野 貞一


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