ココロオドル鹿嶋を再発見vol.11~お地蔵様お願いかなえて~

鹿嶋市どきどきセンターby:鹿嶋市どきどきセンター

 日本に仏教が入ってきたのは飛鳥時代で、百済から伝来したと言われています。その時、それを受け入れようとした崇仏派の蘇我氏と、それに反対した廃仏派の物部氏との争いが起こりました。争いは蘇我氏が勝利し、天皇の命により蘇我馬子は飛鳥寺を、共に争った聖徳太子は四天王寺を建立しました。その後、造寺、造仏が流行し、豪族達が全国に寺を建立していきました。中大兄皇子らが蘇我入鹿を討った乙巳の変(645年)後は、律令国家のなかで国家政策の一環として全国に広がりました。

 8世紀前半から、郷よりも狭い地域単位で、小規模な寺院は営まれていましたが、国分寺が建立された8世紀中頃を境に、仏教はさらに民間へと普及し、村単位で寺が建立されるようになりました。集落跡の遺跡から仏像や仏具、「寺」と書かれた墨書土器など仏教関連の遺物が出土する例が全国的に見受けられます。

 平成30年度に行った、鹿島郡家の正倉跡の範囲を確認する調査の中で検出した平安時代の建物跡の中から、小さな仏像が見つかりました。この仏像はその大きさから、小金銅仏と呼ばれています。

神野向遺跡で検出した竪穴建物跡
小金銅仏検出状況

 鹿島郡家跡(神野向遺跡)は、国指定史跡鹿島神宮境内附郡家跡の一つで、鹿島神宮の南側対岸の台地上に所在しており、古代の鹿島郡の役所跡です。正倉跡は、税として納められていた米や稗、粟などを保管していた倉庫域です。検出した竪穴建物跡は、一緒に見つかった土器片から10世紀末~11世紀のものだとわかりました。

 小金銅仏は、高さ10.78cm、重さ196.6gの青銅製です。右手は与願印、左手は施無印を結んでいる地蔵菩薩立像です。顔と胸の一部に金箔が残っており、金箔が施されていたことがわかりました。また、ホゾの部分があるため、台座に差し込んで立てていたと考えられていますが、台座部分は見つかっていません。

神野向遺跡出土小金銅仏展開写真

 鹿嶋市内で確認されている小金銅仏は、神向寺所有の如来坐像、脇侍菩薩立像、鉢形神宮寺経塚出土の地蔵菩薩立像があり、今回紹介した地蔵菩薩で4例目になります。神向寺、神宮寺経塚の3点は、現在茨城県立歴史館に保管されています。神野向遺跡出土の地蔵菩薩は、保存処理を行い、どきどきセンターの常設展で展示しています。

どきどきセンターPRESENTS-ココロオドル鹿嶋を再発見-

 鹿嶋市どきどきセンターは、鹿嶋市内の発掘調査や鹿嶋の歴史・文化を伝える事業を展開しています。全24回、鹿嶋市内の発掘調査の出土品からみえる鹿嶋の歴史や文化・食生活など紹介していきます。また、どきどきセンターの企画展や事業をお知らせします。 


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