鹿行偉人伝その12~剣聖、塚原卜伝~

アバターby:鹿行ナビ

 塚原卜伝は実在した鹿島出身の剣豪です。「剣聖」といわれる塚原卜伝は、延徳元年(1489)鹿島神宮の吉川覚賢(あきかた)の次男として、現鹿嶋市宮中大町の吉川家に生まれました。幼名朝孝(ともたか)。吉川氏は代々神官でもあり、正等寺のお坊さんでもありました[i]。この寺は、明治の初め鹿島では最も早く「鹿島学舎」(後の鹿島小学校)となりました。朝孝はここで幼いころから剣術と学問に励んでいました。10歳の頃塚原城主土佐守安幹の依頼によりその養子に入りました。城主塚原氏は、鹿行2郡を支配する常陸平氏鹿島氏の一族でした。

 兄に、塚原新左衛門安重という人がいます。安重は、若くして武者修行の旅に出ました。のち永禄年中諸々の合戦に出て武功を立てます。兄の刺激もあり、朝孝(のち高幹、幹重)も諸国武者修行の旅に出ました。実家の座主卜部呼常の指導を受け[ii]、香取神道流(主に長刀術)、中条(富田)流なども学び、「其術如神」=その術神の如し[iii]=とも評されるようになりました。

 卜伝は愛妻家でもありました。その3つの証拠。卜伝55歳の年、天文13年3月3日愛妻たえ、法名妙宥が亡くなります。その丁度5か月後の8月3日に夫婦名で、下生根本寺に門前の田を寄進しています。

 2つ目、お墓にも二人一緒に葬られています。卜伝は元亀2年(1571年)2月11日、沼尾の松岡則方の家で死去、当時としては高齢の83歳でした[iv]。お墓は須賀村(現鹿嶋市須賀)梅香寺にあります。珍しいことに、その一基の墓石に夫婦二人の名前が並んで刻まれています。

 3つ目、位牌にも両名が並んで記されています。位牌は梅香寺近くの長吉寺(現須賀の集会所)にあります。上に「帰一」、右に「宝剣高珍居士零位」、左に「仁甫妙宥大姉零位」とあります。妻と共にありたいという卜伝 の遺志によるものでしょう。

 「鹿島の太刀」、鹿島新当流は秘伝、口伝による一子相伝でした。それが、記録され一般に知られるようになったのは、大月関平の力によるものでした。宗家吉川大膳常應が跡継ぎを心配して、文化13年伊勢亀山藩士大月関平に鹿島新当流の極意を授け、大月はそれを「兵法自観照(へいほうじかんしょう)」二十一巻にまとめ、吉川家に返納したからでした。大月の直弟子関新三郎も鹿島で修業をしました。

鹿島新当流目録一部 通称「蜻蛉絵」

 現存する新弟子たちの「起證(請)文」を私たち古文書学習会が整理しました。江戸時代には寛永3年(1626)から幕末まで609枚、その内多いもので10名の連名などもありました。北は奥州松前から南は九州肥後・日向国まで全国から入門者がやってきたのです。

 現在伝承されている技は、面の太刀12ヶ条(中に「一之太刀」)、中極意17ヶ条、高上奥位十箇ノ太刀、外之物太刀12ヶ条、棒術八ヶ条、他に槍術、抜刀術。計120ヶ条あります。

 卜伝は剣と禅を学びつつ、生と死を考え続けた哲学者でもありました。

大月関平『鹿島新當流切合和歌』[v]には、次のようにあります。

「唯授一人之大事

一、左右をば切るも払ふも打ち捨てて 人の心はすぐにこそ行け

一、振り回す大刀に目を付けて如何せん こぶしぞ人の切るところなり 」

もう一つ、卜伝作の歌を紹介しましよう。

「武士の学ぶ教へは押しなべて そのきはめには死の一つなり」(『葉隠』注)[vi]

 剣聖卜伝は、武士の第一は死を学ぶことだ、と明言していたのです。

  (鹿嶋古文書学習会 鹿野貞一)

(注)


[i] 「吉川家文書」、矢作幸雄『無敗の剣聖塚原卜伝』

[ii] 「塚原卜伝先生家伝」吉川家文書

[iii] 「鹿島家諸譜代之士略系」や「同姓調(古譜代家系)」いずれも鹿島惣大行事家文書

[iv] 『鹿島史』

[v] 吉川家文書。訳文は鹿野

[vi] 『葉隠第一巻』山本常朝の見解を田代陣基が筆録、一七一六年頃の作。武士道:『葉隠第一巻』山本常朝の見解を弟子の田代陣基(つらもと)が筆録したもの


文化一覧ヘ