鹿行偉人伝その1~芭蕉の師 仏頂和尚~

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 旧白鳥村(現鉾田市)出身の仏頂河南は松尾芭蕉の師匠でした。仏頂河南は「奇人」仏頂とも言われました。芭蕉はご存じ、元禄三大文化人(井原西鶴・近松門左衛門)の一人。その芭蕉の精神的・思想的師匠が「奇人」仏頂和尚だったのです。本当なんです。

仏頂和尚像
臨済宗妙心寺派瑞甕山根本寺 (鹿嶋市下生)

 芭蕉は江戸日本橋滞在中の延宝8年、妻寿貞と甥桃印の密通によって、失意のどん底にいました。その年の冬、身一つで深川に移住。同じ深川の臨川庵にいた鹿島根本寺住職仏頂和尚と運命的な出会いをしたのです。芭蕉は「朝暮に来住」(現臨川寺「芭蕉由緒の碑」)し仏頂に教えを乞いました。蕉門十哲の一人支考も「(芭蕉翁は)仏頂和尚の禅室にまじはり」(『俳諧十論』)とあります。精神的にゆきづまっていた芭蕉は、仏頂の説く禅の思想―生死も愛憎も虚であり実である―が心に染みました。仏頂の「物心一如」論・「仮想実相」論は、以後芭蕉の「不易流行」論となり、蕉風確立に大きく寄与していったのです。

 芭蕉は貞享4年8月下生根本寺に仏頂和尚を訪ねました。そこで「月早し 梢は雨を 持ちながら」などの句を作ります。こうして二人の親交は芭蕉が亡くなる元禄七年まで続きました。

仏頂生家 平山家(鉾田市札)

 仏頂河南は、寛永19年(1642)鹿島郡白鳥村字札(現鉾田市札)の農家平山家(現存)に生まれました。額に円珠あり眉目秀麗であったと伝えられています。腕白少年だったようです。河南仏頂の原点は、旧白鳥村での二つの体験にありました。明蔵寺(後の普門寺)の柿を盗んでも、和尚さんに怒られるどころか、頭をなでてもらったのです。父親とは大違い、なんと心が広いことかと感銘を受け、仏門に入る決心をしたのです。 「出塵之志(しゅつじんのこころざし)」(『続禅林僧宝伝』)。もう一つは母親との確執にありました。全国修行中の河南17歳は急きょ帰国し、重態の老母になんと、「俺は以前からあんたを握りつぶしたいと思っていた。仏門に入るのをなぜ邪魔し続けたのか!」と口角泡を飛ばして面罵したのです。母親は少年河南を根本寺から何度も何度も家に呼び戻したからでした。生来利発だったがゆえに、仏門に入らず仕官して出世してもらいたかったのでしょう。この二つの体験がトラウマ的エネルギーとなって、仏頂河南を禅の修行にまい進させたのです。冷山和尚の根本寺で修業を積んだ後、十四歳で全国修行の旅に出ました。青年河南の「鹿島立ち」。その後生まれ故郷に近い大儀寺(現鉾田市阿玉)を再興したり、那須雲巌寺(74歳臨終の地)や各地に赴いて布教活動や弟子の指導にあたりました。

仏頂が再興した臨済宗宝光山大儀寺(鉾田市阿玉)

 仏頂和尚は念仏仏教や葬式仏教を嫌い、路上に出て民衆に呼びかけ、社会悪があればそれと戦えという実践の人でした。鹿島神宮との裁判闘争でも先頭に立って、勝利しました。仏の道に入らずとも、「工夫」して仕事や学業や家事等日常的な行為=修行を続ければ、誰でもどのような世になっても前向きに生きていけるのだ、とのメッセージを残してくれました。

文・写真 鹿嶋古文書学習会 鹿野 貞一


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