「平安時代の鹿島」第2回目は火葬墓です。
大きく目立つ古墳を造っていた古墳時代と異なり、奈良・平安時代の日本では薄葬の習慣(贅沢なお墓造りをやめて、質素なお墓を造る)が一般化します。考古学調査の中では土壙墓と言って、地面を方形に掘り下げ、死者を埋葬する施設が確認できます。これは古墳時代以前からの土葬を引き継いだ伝統的な葬法です。土壙墓の数は当時暮らしたであろう人々の数には到底足りません。地域の有力者のみが埋葬され、その他の人々は文献史料などに見える「遺棄葬」や「水葬」、「鳥葬」などによって埋葬されたとみられます。
奈良・平安時代には、それまでの葬送儀礼のほかに、新進の儀礼として朝鮮半島を経由した「火葬」が伝来します。火葬は現代において馴染みのある葬送儀礼ですが、これは明治時代の公衆衛生の観点から広まったものです。日本で初めて火葬を行った記録は700年の道昭の例が初出とされます。当時、火葬を採用した人々は大陸からの情報に通じた僧や天皇・地方有力者でした。火葬は大きな埋葬施設や豪華な副葬品を持たないため一見して簡素、手軽な葬制と感じがちですが、儀式を執り行うお坊さんなど専門家を手配したり、火葬場のない当時に生身の遺体を高温で骨にするための困難さは、決して庶民に採用できる葬制ではなかったと考えられます。
鹿嶋市でもこの火葬を営んだ有力者の存在が確認できます。
鹿嶋市内からは合計8基の火葬墓が報告されています。いずれも古墳群中に造営されており、宮中野古墳群で最も多く6基が見つかっています。時代については、報告が不明瞭なものを除くと、ほぼ9~10世紀以降(平安時代)のもと考えられます。8基の内4基は火葬墓の骨壺として利用される薬壺型短頸壺とその近似品です。残りの4基は日常の器を骨壺としています。
平安時代火葬墓の選地について法則があるのか詳細は不明ですが、古墳時代の墓域が平安時代まで継承されていくケースはそう多くありません。そう言った中で、鹿嶋市で発見された全ての火葬墓は古墳群中から見つかっており、古墳時代から平安時代までの有力者の動向を知るために非常に興味深い資料です。
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