平安時代の鹿島③ 小金銅仏

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 「平安時代の鹿島」3回目は小金銅仏です。  
 金銅仏とは、銅で鋳造して鍍金(金メッキ)を施した仏像のこと。小型のものが小金銅仏です。まずは写真をご覧ください。

 上図は出土当時のもの、下図はクリーニング・保存処理を施したあとのものです。金メッキがわずかながらも残っていることがわかります。高さが10.78cm、重さが196.6gと小柄な地蔵菩薩立像です。
 仏像の手のポーズを印相(いんそう)と言います。この小金銅仏の場合、正面に構えた左手は施無畏印(せむいいん)で、畏れを取り除くもの。垂れ下がった右手は与願印(よがんいん)と考えられており、願いをかなえるという意味。施無畏印と与願印の組み合わせは、有名な奈良の大仏(盧舎那仏)など多くの仏像も持っている印相です。   
 また、足の部分の下に突起があるのがわかるでしょうか。これはほぞといい、台座の穴に差し込んで直立させるためのものと考えられます。現代のもので例えるなら、アクリルスタンドにも同じような部位がありますね。

 小さいながらもしっかりした作りで、当時の人々の信仰心がうかがえるこの小金銅仏。平成30年度に、国指定史跡である鹿島神宮境内附郡家跡のひとつである鹿島郡家跡から出土しました。鹿島郡家跡は、古代の鹿島地方を治めた行政組織である旧鹿島郡の役所跡です。小金銅仏は、正倉域という郡家の倉庫域が廃絶した後に広がった集落の建物跡から出土しました。同じ場所で見つかった土器から10世紀末~11世紀のものと推測されます。

 ところで、鹿島郡は日本に8つしかなかった神郡として定められていました。鹿島神宮の所領・神域であり、税収を神宮の修理や祭祀に使用することができたのです。それほどに神宮の影響が強い土地で、なぜ仏教の信仰と関わりが深い小金銅仏が見つかったのでしょう。
 そう、神仏習合です。当時の日本は、唐の文化を受容し取り入れることで律令国家を成立させ、発展していきました。そこには仏教も含まれますが、日本にはすでに神祇信仰・古神道が広まっていました。そのため政府は仏教と神道との融和政策を進めたのです。その象徴のひとつとして、全国の名神大社に付属するように神宮寺が建てられました。
 もちろん鹿島にも神宮寺は創建されましたが、歴史の中で廃寺となってしまい、現在は残っていません。しかし、発掘調査で跡地は見つかっており、近くの経塚(きょうづか。仏教の経典や仏具を埋納した塚)からも小金銅仏が出土しています。

 また、平安時代末期に差しかかる時期であることから、末法思想との関わりも考えられるかもしれません。ブッダの教えや仏法の力が、あるときを境に衰えてゆき、荒廃した時代が訪れるという考え方です。日本では1052年が末法元年とされ、摂関政治の衰えや武士の台頭に伴って治安が悪化したこともあり、人々は強い不安を抱えていました。鹿島郡の人々も、先の見えない中でこの小金銅仏に祈りを捧げていたかもしれません。

 様々な時代背景を感じさせる遺物、小金銅仏。郡家跡から出土したものは鹿嶋市どきどきセンターに展示されているので、ぜひ見に来てください。


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