平安時代の鹿島⑤ 塼

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 この写真、現代のコンクリートブロックではありません。鹿嶋市内の遺跡から見つかった出土品です。

 これは塼 (せん)とよばれる焼成したレンガともいうべきものです。塼という漢字を書き、古代から現代まで土木建築の材料として多く使われています。
 塼はもともと中国で発生したもので、朝鮮でも使用されていました。日本には朝鮮から塼が伝えられ、7世紀から8世紀の宮殿跡から朝鮮系の塼が出土しています。日本では文様が施されたものはほとんど見つかっていません。
 調査例をみると塼は一般集落跡の遺跡から出土することは稀で、宮殿や寺院など特別な建物にしか使用されていなかったようです。
 鹿嶋では神宮寺跡やその周辺の集落、鹿島郡家跡から出土しており、もともとは神宮寺で使用され、使われなくなった塼が各地に運ばれ、カマドの基礎材などに利用されていたと考えられます。
 神宮寺跡から出土する塼は無文の長方形であり、大きさは約51㎝×21㎝、厚さ6㎝が標準の大きさとみられます。 塼は床や基壇に並べられ、鹿島神宮寺では雨落ちの溝に並べられた状態で出土しています。この写真は昭和48年の調査で出土した塼です。

北側雨落ちの塼列 左側に建屋があったと推定される
西側の土留め塼列

 天安三年(859)の太政官符(『類緊三代格』所収)では「(略)己丑修行僧満願神宮寺を創建す。初め満願鹿嶋に至り発願して一寺を創らむとす。宮司従五位下中臣鹿嶋連大宗及び大領中臣連千徳等これに帰依し力を合わせ寺を建る。満願因りて大般若経全部六〇〇巻を書写し又仏像を図書して寺に蔵す。往時すること八年(略)」とあり、鹿島神宮寺は、天平勝宝元年(七四九)に箱根足柄出身の僧満願と鹿嶋神宮宮司中臣鹿嶋連大宗・鹿嶋郡の郡司中臣連千徳によって創建されました。
 このような太政官符の記載によって、神宮寺は文献上知られていましたが、遺跡の所在は特定できず、「幻の寺」と呼ばれていた遺跡でした。
 昭和48年6月に土砂採掘場で多量の焼土と土師器・須恵器と土留めの二列の塼列が約3メートル、更に礎石一個が発見された。昭和49年5月、土砂採掘の進展に伴い、削土場所約200㎡の発掘調査を実施し、塼片を礎石の裏込め石の代用として搗き固めた遺構7基、礎石2カ所、基壇1カ所が見つかっています。
 鹿島以外にも、伊勢神宮と伊勢神宮寺、宇佐八幡宮と八幡宮寺、香取神宮と香取神宮寺など、名神大社に付属するように全国で40カ所以上の神宮寺が建立されました。
 承和四年(837)には定額寺に列せられた寺院で、神宮寺として全国的にも有名です。 最初は鉢形の地に建立されましたが、大風による倒壊や落雷による焼亡の度に大宮司等によって再建され、平安時代末には鹿島神宮境内(現在の鹿園)に、そして江戸時代初期には城山に移転しましたが、幕末の廃仏毀釈・天狗党の争乱により焼亡し廃寺となりました。


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