かしまの遺跡いってみた!vol.7「湖岸水田遺跡 ー 須賀地区」

アバターby:鹿行ナビ

今回も北浦沿岸に分布する湖岸水田遺跡を紹介します。
鹿嶋市内の湖岸水田遺跡は鉢形地区・宮中地区・豊郷地区と3地区で調査が行われています。前回は宮中地区の古墳時代の水田跡を紹介しましたが、今回は豊郷地区を紹介します。

昭和57・58年に調査した須賀地区水田写真(現在)

昭和57年に行われた須賀Ⅱ地区からは、明確な水田跡ではありませんが、8世紀前半から9世紀と推定される古代の水田跡の土層が検出されました。この土層をプラントオパール分析した結果、穂刈で収穫した場合約8t/10aが総量であり、約80年間使用された水田であったとすると100㎏/10a・年と調査当時推定されています。

調査風景とプラントオパール分析のための試料サンプル採取

昭和58年度の須賀地区の圃場整備に伴う(なな)反田(たんだ)遺跡の調査では、水田跡の検出はできませんでしたが、SD3と付けられた溝からはケヤキで作られた田舟が見つかりました。田舟は破損後に両端をくり抜き、反転して溝の暗渠として再利用されたと考えられます。奈良時代に使用されたと考えられるもので、当時全国で初めて出土した田舟として水田耕作と木製品の両面から注目される出土例となりました。

出土した田舟写真

また、古墳時代後期と推定される両把手付の舟形木製品は、約半分しか残っていませんでしたが、舟底には高台が付いていて、長さが1.25mあり大型のものです。材質はクリで両端の把手は本体から刳り抜き作られていました。

出土した両把手付舟形木製品

また、大溝の土坑状にくぼむ部分からは網代が検出されています。網代の大きさは長さ4.5m、幅1.7mと規模が大きく、二枚重ねの状態で土坑の南斜面から確認されました。この網代は半分に裂いた篠竹を5本合わせて平織の手法で製作されたもので、用途ははっきりわかりません。

出土した網代の写真

条里遺跡の調査は、当時茨城県内でも初めて行われた貴重な調査事例で、舟形の木製品や網代が見つかったことで、大変注目されました。水田の調査は農閑期の冬に行われ、低湿地の為、泥水をかきだしながら調査を進めるため困難の連続です。しかし水田面の検出や木製品の出土といった台地上の調査では出てこない調査成果があります。調査に協力してくださった地権者の皆さんや参加された先輩方に深く感謝します。

調査風景

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