ココロオドル鹿嶋を再発見vol.15~陰陽道は鹿嶋でも~

鹿嶋市どきどきセンターby:鹿嶋市どきどきセンター

 鹿嶋市内の湖岸水田遺跡から見つかった木簡の中に、「急々如律令」や「蘇民将来子孫也」などの文字が書かれたものがあります。これらは呪いに使ったと考えられ、呪符木簡と呼ばれています。

湖岸水田遺跡出土呪符木簡

 「急々如律令」とは、中国漢代に、公文書の末尾に添えた語で、「急々に律令のように行え」という意味です。後に道家や陰陽家・祈禱僧などが悪魔を退散させる呪文の結びとして、誓詞などの末尾にも記されていました。
 「蘇民将来」は、『備後国風土記』によると昔、北海に住む神が求婚のために南海に行く途中夜となり、将来兄弟に宿を乞うたところ、裕福な弟の巨丹将来には断られ、貧しい兄の蘇民将来は貧しいながらもてなして泊めてあげました。後日、神は蘇民将来のところに赴き「今後疫病が流行したときには「蘇民将来の子孫」と言って茅の輪を腰につけた人は免れる」と告げ、そのとおりにした蘇民将来の娘の命は助かったと伝わっており、ここから呪符に転化したとされています。

 陰陽道の起源は、古代中国にあった「陰陽思想」と「五行思想」とされています。「陰陽思想」とは、この世の万物は全て「陰」と「陽」の2つの「気」から構成されているという考えです。「五行思想」とは、「気」を「木・火・土・金・水」の5つに分類し、その動きによって万物が生じると考える説です。

 日本における陰陽道は、5~6世紀頃に仏教や儒教とともに伝わり、元々日本にあった神道の影響も受けながら独自の発展を遂げました。7世紀頃律令制がしかれると、地位が確立され、陰陽寮として中務省の一機関となり、陰陽師を国が管理し始めました。平安時代になると、律令制が弱まり、貴族や公家が使用するようになりました。中世以降は、貴族の没落とともに民間へと広まり日本独自の展開を強めていきました。

 呪符木簡の他に陰陽道の痕跡を感じることができる遺物に、土師器の小皿に呪符や五芒星が書かれた墨書土器があります。これらは鹿島神宮駅の北側の台地上に位置する厨台遺跡群から見つかっています。

 ところで木簡とは、木片に墨で文字を書いたもので、紙の文書と同じように使用されたものと、貢進物などの荷物につけられた荷札に使用されたものとがあります。木簡の特徴のひとつは、一度墨で書いても、削って書き直すことができることです。文字を書くことのある役人や神職などは、筆や硯とともに「刀子」という小刀を所持していました。

湖岸水田遺跡出土木簡

 鹿嶋市内で木簡が多く見つかっている遺跡に、鹿嶋市鉢形地区に所在する湖岸水田遺跡があります。木簡は木製品であり有機物なので、乾燥しているか空気から遮られた状態になければ腐って残りません。出土する木簡の多くは湿地帯の遺跡から見つかります。湖岸水田遺跡も北浦湖畔の低地にあり、湿地帯であったため、木製品が当時の形を保った状態で保存されていました。遺跡からは木簡の他にも田舟などの木製品が多数見つかりました。

湖岸水田遺跡(鉢形条理遺跡)
湖岸水田遺跡出土田舟

 呪符木簡や木札はどきどきセンターの常設展で展示しています。見学の際は墨で書かれた文字も観察してみてください。

どきどきセンターPRESENTS-ココロオドル鹿嶋を再発見-

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