ココロオドル鹿嶋を再発見vol.20~激動の鹿島城~

鹿嶋市どきどきセンターby:鹿嶋市どきどきセンター

鹿島城出土の鉄砲玉

 現在、城山公園として市民の憩いの場となっている鹿島城。城跡の西縁辺から望む北浦は絶景です!

 こうした平和な情景があふれる鹿島城ですが、戦国時代には実際に戦いが行われた城跡です。それを示す遺物が、冒頭の写真でお示しした鉄砲玉です。

 これは鹿島城の本丸から出土したもので、径1㎝程度の球状を呈するものです。読んで字のごとく、鉄砲に込める弾丸として使用されました。

 鉄砲が日本に伝来したのは、天分12(1543)年のこととされ、九州の種子島に流れ着いた中国船に乗っていたポルトガル人によってもたらされたとされており、日本では「種子島」、あるいは「火縄銃」という名称で瞬く間に全国に普及していきました。

 織田信長が長篠の戦いで用いて武田氏の騎馬軍団を打ち破ったことは非常に有名な話ですが、火縄銃の伝来で日本の戦争形態は大きく変わったと言えます。

鹿島義幹と玉造源三(『マンガかしまの歴史①鹿島氏』より抜粋)

 さて、鹿島城の話に戻します。鉄砲玉が出土することからは、鹿島城で戦いが行われたことが知れます。では、実際にどのような戦いが戦国時代に行われたのでしょうか。

 江戸時代に流行した軍記物語である『鹿島治乱記』には、16世紀初頭に幼くして鹿島城主となった鹿島義幹が、奸臣玉造源三の言に従って強引に鹿島城の改築を行ったため、最終的に家臣団に城を追い出されてしまったこと、義幹が復権を狙って鹿島城を急襲し敗北してしまったことが書かれています。この文献からは、16世紀前半に鹿島城を舞台にして大きな戦争が行われたことがわかります。

鹿島城での合戦風景(『マンガかしまの歴史①鹿島氏』より抜粋)

 また、天正19(1591)年に当時の鹿島城主であった鹿島清泰が佐竹義重・義宣親子に謀殺されてしまう事件が発生し、その翌年に鹿島城が佐竹氏に攻められています。

 多くの戦いを経験した鹿島城ですが、最終的には佐竹氏の猛攻に耐え切れず、落城してしまいます。伝承では、佐竹氏方の大砲によって門が破られたようで、大変な戦いであったようです。

大砲を打ち込まれる鹿島城

 いま鹿島城を訪れて、こうした戦いの情景は思い浮かびませんが、その昔、兵たちがそれぞれの信念をかけて戦いを繰り広げた場所であり、この土地を守ろうと戦った人たちがいたことを知っていただけたらと思います。

 なお、鹿島城の城主であった鹿島氏について取り上げた歴史マンガ、『マンガかしまの歴史① 鹿島氏―名門の栄光と悲劇―』が好評販売中です。

 平安時代末期から戦国時代にかけて、鹿島氏の動向から鹿嶋地域の歴史を辿る内容となっています。1冊500円(税込)となっています。皆様、ぜひご覧ください!

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 鹿嶋市どきどきセンターは、鹿嶋市内の発掘調査や鹿嶋の歴史・文化を伝える事業を展開しています。全24回、鹿嶋市内の発掘調査の出土品からみえる鹿嶋の歴史や文化・食生活など紹介していきます。また、どきどきセンターの企画展や事業をお知らせします。


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