鹿行偉人伝その2~宮本茶村 鹿行の孔子~

アバターby:鹿行ナビ

 中国の哲人、孔子はご存知の方も多いでしょう。古代中国の孔子は、人は「仁・義・礼・智」(『論語』)が必要と確信し、それを各国の王に働きかけましたが、戦国の世では受け入れられず、郷里に帰り、多くの弟子の教育と著述に専念しました。その孔子と似た人生を送ったのが宮本茶村でした。宮本茶村は「鹿行の孔子」ともいうべき人でした。 

 鹿行一の学者、国学者、郷土史家、教育者。潮来の豪商、郷士。通称宮本尚一郎。名は元球(げんきゅう)、茶村は号、晩年は水雲。居所を双硯堂(そうけんどう)と称しました。寛政5年(1793)-文久2年(1862)、享年70。

 幼少より聡明で、学問を好み十余歳にして兄篁村と共に江戸に出て、 山本北山の門に学びました。研さん数年、故郷に帰り家業を継ぎ、家産を再興しました。庄屋として、義倉を設け、天保の飢饉では私財を投じて窮民を救いました。天保14年、篤学と藩政村治の功により郷士に抜擢されました。しかし、富を蓄えるより名教を遺すべしと学問教育に専念するようになりました。

 潮来は水戸藩領内にありました。斉昭公に海防教学の意見を数度にわたり上申しました。藩主徳川斉昭公のライバルはご存じ、大老井伊直弼。攘夷(異国船排除)派の斉昭公に対し開国派の井伊直弼は斉昭公に蟄居を命じました。すると茶村はいち早く、斉昭公の名誉回復=雪冤(せつえん)運動に立ち上がったのです。その詳細が茶村自身の手になる「甲辰(こうしん)日記」。その内容は、民百姓の生活改善を推し進めてきた斉昭公の改革続行を望むというスタンスで貫かれ、過激な反幕運動とは一線を画した政治戦術をとっていました。しかし、その茶村も水戸赤沼の獄に3年間つながれてしましました。それにもめげず、牢内では毎日足踏みをして体を鍛えたそうです。

吉田松陰来訪の碑

 

獄から出た後は、孔子同様、歴史研究に専念するとともに、私塾「恥不若(ちふじゃく)」を開いて多くの門弟を育てました。門弟には、暴れん坊の桜任蔵、水戸天狗派の竹内百太郎、伊能節軒、鹿島では吉川三兄弟(天浦・君浦・松浦)、松岡友鹿らがいました。また水戸藩延方郷校(聖堂=孔子廟、現二十三夜尊、写真)に招かれ、子弟の教育に尽力しました。知友多く、梁川星巌、水戸藩の小宮山楓軒・会沢正志斉・藤田東湖・立原杏所、土浦の色川三中、下総の久保木竹窓、清宮秀堅等と親しく、三河の渡辺崋山、羽前の清川八郎、長州の吉田松陰らの来訪も受けました。

宮本茶村の墓

 著書も多く、『常陸国郡郷考』『関城繹史(えきし)』『常陸長暦』『鹿島長暦』『諸族譜』等。詩集に『雙硯堂詩集』。唯一の娯楽は釣りでした。茶村の死をいたむ送葬者は千余人と伝えられています。墓および解説板は、宮本家の菩提寺でもある浄国寺に隣接する旧邸内にあります。

辻の延方郷校(孔子聖堂、現二十三夜尊)

余談。潮来は、江戸時代水上交通の要衝として栄え、前川には仙台河岸を初め多くの東北諸藩の河岸がありました。遊郭も数多くあり、行楽の地でもあったのです。

西園寺 遊女の墓
遊郭入口の大門跡
最後の1軒も焼けて、門塀だけ残っている。

文・写真 鹿嶋古文書学習会 鹿野 貞一


新着記事一覧ヘ