ココロオドル鹿嶋を再発見vol.5~なんと大きな土器でしょう~

鹿嶋市どきどきセンターby:鹿嶋市どきどきセンター

この大きな壺は何に使われたのでしょうか。

国神遺跡出土の壺棺

 左は大きなダルマさんのような格好をしています。胴部には細かい縄文が付けられ、頸部には細い線で文様が描かれています。高さが47㎝、最大径は約38㎝、弥生時代に煮炊きで使用されていた土器に比べると、かなり大きな土器です。右は上に重ねて使われた土器で最大径は約40㎝、高さが約38㎝、底部に穴をあけていました。この二つの壺を組み合わせて使用していました。 

国神遺跡出土の壺棺出土状況

 これらの土器は木滝の国神遺跡で発見された、今から約1800年前に焼かれた土器の壺棺、つまり骨壺です。亡くなった人を何らかの方法で白骨化させ、その後骨を土器に入れて埋葬した「再葬墓」と呼ばれる埋葬方法です。

 このような再葬墓は、東日本の弥生時代前期・中期の代表的な文化で、県内では人面付きの土器が使用されていた例もあります。茨城県常陸大宮市の泉坂下遺跡や筑西市の女方遺跡ではほぼ完形で見つかっており、祭祀的な土器といわれています。

 佐賀県の吉野ヶ里遺跡にみられるように、九州地方では大きな甕棺に亡くなった人をそのまま埋葬していますが、東日本では土坑墓と呼ばれる穴を掘って埋葬した墓や壺棺の墓が見られ、弥生時代は地域差が大きかったと言えます。特に土器は顕著であり、弥生時代前期を見ると西日本全体では朝鮮半島の影響を受けた土器、東海地方では貝殻で模様をつけられた土器、関東では縄文が付けられた土器が主に使用されていました。関東地方では、中期や後期になっても縄文が付けられた北関東系と、模様のない南関東系と大きく2種類あり、鹿嶋では両方の土器が見つかっています。

 鹿嶋市内には弥生時代の遺跡が27か所あります。こられの遺跡は弥生時代中期から後期の遺跡であり、前期の遺跡は見つかっていません。それ以前の縄文時代晩期末の遺跡もなく、人口が激減したのではないかと思われます。

 このような状況は鹿嶋だけではなく県内でも同様であり、霞ケ浦や北浦沿岸では晩期末から貝塚が姿を消し、遺跡数が激減します。それはこの時期に寒冷化したことに起因するのではないかと考えられています。

 鹿嶋はいつ頃稲作が伝播したのか?縄文時代にみられる漁労中心の生業から、水田が作られ、稲作が開始されたのか?まだまだ分からないことだらけです。

 大きな壺棺が見つかった国神遺跡では弥生時代の住居跡から焼けた米が見つかっていますので、この骨壺に葬られた方も米を食べていたのかもしれませんね。

国神遺跡で見つかった弥生時代の住居跡
国神遺跡から見つかった弥生時代の米

どきどきセンターPRESENTS-ココロオドル鹿嶋を再発見-

 鹿嶋市どきどきセンターは、鹿嶋市内の発掘調査や鹿嶋の歴史・文化を伝える事業を展開しています。今回より全24回、鹿嶋市内の発掘調査の出土品からみえる鹿嶋の歴史や文化・食生活など紹介していきます。また、どきどきセンターの企画展や事業をお知らせします。


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