茨城県住みます芸人オスペンギンの山中崇敬は鹿行出身!~オスペンギン山中の鹿行物語その1~

オスペンギンby:オスペンギン

僕は吉本興業のお笑いコンビ『オスペンギン 』の山中崇敬といいます。コンビのもう一人は『でれすけ』といいます。

オスペンギンの山中崇敬(左)とでれすけ(右)です

『住みます芸人プロジェクト』という企画で、現在は茨城県内に住んで活動中のお笑い芸人です。

神栖市出身で鹿嶋市の学校にも通学していました。母親は潮来市出身。そして行方市や鉾田市には親戚や知人が沢山住んでいます。そんな生粋の『鹿行野郎』山中崇敬の鹿行話に少しお付き合いいただければと思います。

さて、『鹿行の皆さん、ボクは仲間だよ!親近感持ってね!』というアピールも済んだところで、前述の『住みます芸人プロジェクト』を簡単に説明します。

吉本興業の壮大な企画でございまして、『47都道府県全てに吉本のお笑い芸人がいるよ!そいつらが地域を盛り上げるよ!』と、2011年4月にスタートした物です。以上です。

『簡単に説明』というより、『雑な説明』になってしまっているかもしれませんが、概ねこれで合ってると思います。

そして、なぜ我々が選ばれたのかなんですが、プロジェクトのスタート数ヶ月前に『住みます芸人への立候補者の募集』がありました。『各都道府県の出身者や、所縁がある人、やってみませんか?』という感じで、その頃のオスペンギンは、東京で約6年間全く芽が出ない活動を続けていました。

当時30歳目前だった僕は『こんなはずじゃなかった』『将来どうなっちゃうんだろう』『でも芸人は絶対辞めたくない』と、悩みに悩んでいましたので、このタイミングでの『立候補者の募集』に、『このままじゃダメだ!心機一転するぞ!立候補だ!』という熱意が湧いてきました。

でもいざ立候補しようとすると、成功しない人間の典型というか、お決まりのパターンで『そのプロジェクトってどうなの?大丈夫なの?やめといた方がいいかな?』という不安も湧いてきました。熱意と不安のシーソーゲームが完全に釣り合って、相方のでれすけと、結論が出ない話し合いを何度も繰り返しました。

時間だけは過ぎていき、そんなときに2011年3月11日の東日本大震災が起きました。

不幸中の幸いで、神栖市の両親との連絡は取れたのですが、地元の断水や停電のニュースを見て、モヤモヤが膨らみ2、3日経って、実家に帰省をしました。

実家付近もかなりの被害を受けていました。

そんな中、両親が近隣住民の皆さんと助け合いながら頑張っている姿を見て、『自分も地元に、そして茨城に、何か貢献したい!』という気持ちが強くなり、そこで立候補を決意し、でれすけを説得しました。

でれすけは了承してくれたものの、事務所から選ばれなければ住みます芸人になることはできません。

書類審査や面談などはあったんですが、何の連絡もないまま住みます芸人発表予定の4月下旬になりました。

『確か、もうすぐ住みます芸人の御披露目があるはず。このタイミングまで連絡が無いってことは、やっぱり選ばれなかったんだ…』なんて思っていたら、携帯電話が鳴りました。

『茨城県はオスペンギンに決定です。2週間後までに茨城に引っ越してもらいます』

まさかの当選。驚きました。

『選ばれた!とはいえ茨城に行ったらどうなるんだろう?何をすればいいの?大丈夫?っていうか2週間後!?』という、不安で胸がいっぱいになりました。期待だけじゃなく、不安でも胸は膨らむんですね。

でもそんな不安に気を取られている暇はありませんでした。そこからの2週間、急遽アルバイト先を辞め、当時のマンションを引き払い、先輩に報告し、茨城での居住地を探したりしていたら、あっという間でした。

そもそも売れない芸人に引越し資金があるはずもなく、茨城での居住地探しは難航しました。

どうにか鹿嶋市の知人を頼り、『家賃は0円でいいよ』と、しばらく米蔵に住まわせていただけることになりました。国道51号沿いにある米蔵です。

ということで、鹿嶋市の米蔵でオスペンギンの住みます芸人生活が始まったのです。


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