どきどきセンターPRESENTS-ココロオドル鹿嶋を再発見-
鹿嶋市どきどきセンターは、鹿嶋市内の発掘調査や鹿嶋の歴史・文化を伝える事業を展開しています。今回より全24回、鹿嶋市内の発掘調査の出土品からみえる鹿嶋の歴史や文化・食生活など紹介していきます。また、どきどきセンターの企画展や事業をお知らせします。
キラキラと輝いている土器。土器を作る際、粘土に多量の雲母を混ぜたため、このように光っています。土器を焼く時割れないようにするため混ぜる砂に多少の雲母が混ざることはありますが、どうしてこの時期の土器に多量の雲母を混ぜていたのかは、わかっていません。
この雲母がキラキラした土器は今から4500年前の鹿嶋に住む縄文人が使っていました。研究者の間では阿玉台式土器と呼ばれる土器型式で、学生の時はその特徴から「雲母キラキラ阿玉台(あたまだい・おたまだい)」と呼んだものです。阿玉台とは標式遺跡(その時代の基準となる遺跡)の名前で、香取市阿玉台の阿玉台貝塚(国史跡)からきています。
市内の代表的な縄文時代中期の遺跡は厨台遺跡群の鍛冶台遺跡(鹿嶋市厨周辺)や、豊郷地区のミシマ遺跡(鹿嶋市田野辺)、林城跡(鹿嶋市田野辺)など北浦を望む台地の縁辺部に分布しています。これらの遺跡からは竪穴住居跡や円形の穴が重複して見つかっており、航空写真をみるとまるでクレーター。遺構密度の高さがわかります。円形の土坑は直径が3mぐらいあり、断面がフラスコ形のものが多く、貯蔵用に使っていた土器と考えられます。フラスコ形の土坑は地下の食料倉庫で、多量のドングリや木の実を土器やかごに入れて蓄えていました。
縄文人は秋になって森の木々に実をつけると、家族総出で集めていたのでしょう。入口が狭く、温度や湿度が安定していたので、冬になっても凍ってしまうことはきっとなかったと思います。
ところで、阿玉台式土器の多くは縁(ふち)に飾りが付いています。胴には粘土紐で作った飾り(隆帯)が縦・横と貼り付けられ、それに沿って文様が付けられています。この文様の変化に注目して年代が推定されています。
阿玉台式土器の分布は関東地方の東部を中心として分布しています。同じ時代に関東の西部や中部では勝坂式土器(神奈川県相模原市勝坂遺跡を標式資料として設定された土器群)と呼ばれる土器型式があります。全国的に縄文時代中期は把手(とって)や口縁に立体的な飾りを付けた土器が見つかっています。新潟地方では「火焔土器(かえんどき)」と呼ばれる炎が燃え上がったような土器が現れ、縄文時代の中で最も複雑な文様が付けられた時期です。
文・写真 鹿嶋市どきどきセンター