かしまの遺跡いってみた!vol.1 「“いま”に残る鹿島城の歴史」

鹿嶋市どきどきセンターby:鹿嶋市どきどきセンター

どきどきセンターPRESENTS-かしまの遺跡いってみた!-

 鹿嶋市どきどきセンターは、鹿嶋市内の発掘調査や鹿嶋の歴史・文化を伝える事業を展開しています。今回より全12回、鹿嶋市内にのこる遺跡に焦点を当てて、遺跡の現況と調査でわかった知見を紹介していきます!また、どきどきセンターの企画展や事業をお知らせします。

写真①:鹿嶋城山公園の桜

桜の風景がきれいな、鹿島城山公園。春には多くの皆様が、桜を見学しに来られます。陽光の中でヒラヒラと漂う桜の花びらを眺めていると、心が癒されますね。
現在、こうした市民の憩いの場である鹿島城山公園ですが、「城」という名前が付いているとおり、戦国時代には実際の戦いが行われたお城で、発掘調査では、鉄砲玉など実際の戦いで使用された遺物が検出されています。
鹿島城は自然地形を利用し造成した平山城で、城山公園の場所は主郭(本丸)です。公園へと続く坂道からは、鹿島城主郭の周囲に構築された大規模な堀跡がみられます。

写真②:主郭周辺の堀跡

②の写真は、現在の鹿島城主郭の堀跡を道路側から望んだ写真です。一目して、大規模な堀跡であることがわかります。この堀跡は、幅が20mにもなる長大なもので、堀の底面から現地表面までの比高差は約11mと、とても深い掘です。そして、現在は確認できませんが、鹿島城が実際にお城として機能していた時代には、主郭の北側や西側には大きな水堀が掘られており、そこに鹿島神宮の方から流れていた御手洗川が流れ込む構造でした。一方、南側は空堀を巡らせ急峻な傾斜を構築して、戦いのときに攻め込まれ難くする工夫が施されています。

写真③:主郭内を区画する堀(調査写真)

また、主郭の中にも、大きな掘の跡が確認されています。③の写真は、主郭内を区画した掘跡の断面の写真です。
幅約16.5mと広い堀跡で、底面は徐々に狭まるV字型をしていることがわかります。こうした形の堀跡は「薬研掘」と呼ばれ、生薬を粉末にする際に使用される道具の「薬研」に似た形態であることから、そのような名前がつけられました。V字の形態は防御性に優れ、敵が攻めてきたときに堀跡を越えるのを難しくする工夫でした。主郭内にも、こうした防御性の高い堀跡が築かれていることからも、鹿島城が実際の戦闘を想定してつくられていたことがわかります。

写真④:現在も確認できる堀の跡

さて、④の写真は現在の鹿島城の様子。桜並木が並ぶ中、ちょうど鹿島城主郭の中央に、東西方向に走る浅い溝状の窪みが確認できます。これは堀跡の名残が確認できる場所です。
堀の機能が失われた跡、こうした遺構は埋め戻しが行われるか、そのまま放置されて自然に土が堆積して埋れていくことが多いですが、一度掘られたところのため、現地形にもその影響が表れる場合があります。現在でも、過去の鹿島城の情景を垣間見られる場所と言えます。

写真⑤:鹿島城からみえる北浦

最後に、鹿島城主郭北西側から鹿島城を望んだ一枚を紹介します。
現在でも、鹿島城からは北浦南岸を一望でき、潮来方面まで望むことができる絶好のロケーションです。戦国時代の頃には、いまほど建物があるわけではないですし、北浦には橋もなく、いまよりも見通しがよかったと考えられます。こうした眺望の良い場所に城を築くことによって、北浦の交通を監視でき、敵が攻めてきたときにも対処しやすいように考えていたのでしょう。また、当時は北浦に多くの舟が行き交い、こうした水上交易が盛んな場所でした。こうした水上交易を管理する上でも、最良の場所であったといえるでしょう。
いまはのどかな公園ですが、実は多くの歴史が隠れています。お散歩でもお花見でも、ぜひ足を運んでいただけたらと思います。


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