私は時たま、俺ってダメな人間だなあ、とへこむことがあります。実は親鸞も半端なく、その自覚にさいなまされていました。親鸞は比叡山でおよそ20年間修業をしましたが、その煩悩を克服できなかったのです。越後に流罪となって、その後常陸に20年間住み、京都に帰って20年後、90歳で亡くなりました。
親鸞は「愚禿(ぐとく)鸞」と自称していました。私はダメなハゲ爺だと。修行しても駄目でした。しかし、だったら、仏にすがるのに苦行はいらない、立派な寺院や大きな仏像や、お葬式などもいらない、文字を読めなくてもいい、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えればいいのではないか。私のように、迷いながら悪いことをしてしまう人間こそ救われなければならないのではないか、と。この親鸞の教えが広まって、今では日本最大の宗派、浄土真宗となっています。
親鸞聖人は常陸国稲田(現笠間市)の西念寺に居を構え、関東各地を巡り布教活動をしました。もちろん鹿嶋にも来ました。今年やっとその証拠の古文書が見つかりました。親鸞は鹿嶋のどこに泊まったか。桜町の広徳寺でした(枝家祢宜家文書)。そこで寝泊まりし、鹿島神宮や神宮寺にある豊富な仏教書を参照して、その主著「教行信証」を書き上げました。当時は神仏混交の時代でしたから、鹿島神宮にも供僧というお坊さんがたくさんいました。
その親鸞の第一の弟子が、なんと鹿島神宮の神官中臣宗基の子中臣基久、性信(しょうしん)です(『大谷遺跡録』巻三「鹿島大明神」の項、法名信海)。彼は越後流罪の際にも従った、親鸞が最も信頼していた弟子でした。後に下総国横曽根(現常総市)で報恩寺を建立し、横曽根門徒を形成します。
第三の弟子が同じ鹿島神宮の神官大中臣信親、順信(じゅんしん)です(「二十四輩巡拝図会 二 常陸」筑波書林、「茨城県史 中世編」)。
現役の宮司職を辞して、お坊さんになったのです。この順信が親鸞の跡を受けて鉾田鳥巣の無量寿寺住職となり、鹿島門徒のリーダーとなりました。親鸞の建長四年(1252)八月十九日の、おそらく順信に宛てた手紙、「鹿島・行方・南の庄、‥‥おなじ御こころに、よみきかせたまふべく候、あなかしこ」。順信の弟子には、唯信、鏡願、直信、順性、妙性、来信、唯浄、信浄、信性などたくさんいました(今井雅晴「鉾田市町史研究 七瀬1」所収)。順信はその後鉾田下冨田にもう一つ無量寿寺を建てそこで晩年を過ごしました。彼の創設した鹿島門徒が中心となって、京都の親鸞を経済的にも支え、その死後末娘覚信尼たちにも支援を続けました。親鸞の偉業の影に、順信ら鹿島行方教団の信徒達がいたのです。
時空を無視すれば、親鸞はソクラテスと同じでした。ソクラテスは「無知の知」(私は自分が馬鹿だということを知っている)を自覚していました。ソクラテスの弟子が、プラトン、アリストテレスであったように、親鸞の弟子が鹿島出身の性信であり、順信だったのです。
文・写真 鹿嶋古文書学習会 鹿野 貞一
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