鎌倉・室町・戦国時代をまとめて中世と呼んでいます。その中世の行方郡の中で一番有名な人物は島崎長国でしょう。島崎左衛門入道平長国は、島崎氏中興の盟主といえる人物でした。
ご存知、壇ノ浦で平氏を滅ぼした源義経をほうむった頼朝は、鎌倉に源氏政権をうち立てました。その際大きな働きをしたのが、「坂東八平氏」である「房総平氏」(千葉・相馬・武石・国分・東氏ら)や「常陸平氏」などでした。常陸平氏には、大掾・多気・馬場・吉田・行方・鹿島・東条・真壁・小栗・石毛・小高・島崎・麻生・玉造などの各氏がいました。皮肉にも、西の平氏は東の源氏・平氏連合軍に敗れたのです。
常陸大掾(だいじょう)平氏は、常陸国南部を支配していました。その一族に鹿島氏や島崎氏がいました。みな桓武天皇系の平氏でした。
鹿島郡を統括していた「鹿島六頭」は、鹿島・徳宿・持寺・林・中居・立原(「常陸大掾伝記」)その旗頭が鹿島氏でした。この中に烟田氏がなぜ入っていないのかは分かりません。
行方郡は行方景幹の子が「行方四頭」といわれる武士団を形成しました。小高太郎・島崎次郎・麻生三郎・玉造四郎の四氏です。当初は小高氏が優位を占めていましたが、その後島崎氏が兎角を現わし、行方のリーダーとなっていきました。島崎長国の父、父安定大炊助は特に勇猛果敢な武将でした。応永5年(1398)鎌倉公方足利氏に従い、桃井和泉守と戦い、同23年には前管領上杉禅秀を護衛して奮戦むなしく、鎌倉にて討死してしまいました。
その子長国は島崎氏第十三代城主。「左衛門尉尾張守」と称しました。善政をしき、領民から慕われ島崎氏中興の盟主とうたわれました。行方郡の雄として確固たる地歩を固めた長国は、仏法を敬い「入道」(法師)となりました。文明2年(1470)大興山長国寺を芝宿地区(現潮来市)に創建し、島崎氏の氏寺としました。現存しています。写真。長国は永正12年(1515)6月11日他界。
長国の孫利幹も何度も戦場に出かけて、奮戦しています。しかし、天正19年(1591)島崎城は、豊臣秀吉の家臣佐竹氏に滅ぼされ、城主親子ともども命を落とし、残念ながら島崎氏は滅亡してしまいました。
現在潮来市では「島崎城跡を守る会」(会長山口氏、副会長長谷川氏)が発足し、島崎城の整備や学習情宣活動を行っています。また今年、島崎長国をあしらった「御城印」を作成しました。1枚330円。フラワーショップやまぐち(潮来市牛堀)などで販売しています。