関戸覚蔵(せきどかくぞう)は、潮来出身の自由民権運動家で、「いはらき新聞」の創設者でした。明治維新後の政治は薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前出身者)による藩閥(はんばつ)政治でした。それはおかしいんじゃないかと、鹿行地方においていち早く声をあげた人物が、関戸覚蔵(弘化元年1844-大正5年1916)でした。
幕末、潮来の遊郭で藤田小四郎らは密議を重ね、その後筑波山で挙兵しました。その後潮来は天狗党と諸生党に真っ二つに分かれてしまいました。関戸家本家は天狗派、分家の覚蔵家は諸生派に分かれ、一家離散の憂き目にあいました。明治6年やっと父親が一家を連れ潮来に戻れたのでした。
覚蔵は少年時代、鹿行一の学者宮本茶村に学び、明治7年東京師範学校に入学しましたが、病を得て帰郷、その後潮来村戸長(村長)になりました。その頃、地方にとっては大事件の地租改正事業が始まっていました。お金のない新政府はそれで税収を上げようとしたのです。すべての土地を測り直し、ここの土地の地価=面積と価値=はこのくらい、だから税金はこのくらいと決めたのです。困ったのは潮来村民でした。これまで村民誰もが自由に使用できる共有財産であった二重谷村がなくなってしまう。そこで覚蔵は新たな提案を出しました。個人名義の地券状を一括して受理するというアイディアです。これは、個人所有の形はとりますが、実質は従来と変わらないことになるので、共有地を守ることができたのです。覚蔵の優れた知恵は、村民を守りたいという熱望から出たものでした。
そのころ全国的に、藩閥政治はおかしいという自由民権運動が起こり、明治12年に覚蔵は磯山清兵衛らと共に潮来で「公益民会」という団体を結成しました。2年後覚蔵は茨城県会議員に当選し、山岳党派のリーダーとして活躍しました。明治23年自由民権派の念願であった国会が開設され、覚蔵も立候補しましたが、惜敗してしまいます。その直後、大隈重信は覚蔵に宛てて「院外の運動緊要と存じ候」として、「同志大懇親会」が来月あるので「御出京せられたし」と書いています。改めて言論活動の重要性を痛感した覚蔵は、明治24年7月5日「いはらき」新聞を発行し、初代社長に就任しました。その主筆となったのが、鹿島出身の高安亀次郎でした。その力もあずかって、やがて士族新聞といわれた「茨城日報」をしのぐほどの人気を博するようになりました。覚蔵は念願の衆議院議員に立候補して当選し、以後3期にわたって議員活動を展開したのでした。
晩年は著述に専念し、名著『東陲(とうすい)民権史』をはじめ『水戸城』、『二重谷沿革史』等を著しました。しかし、財産を使い果たし、清貧のまま73歳でこの世を去りました。お墓は水戸の神応寺と潮来の浄国寺にあります。
文 鹿嶋古文書学習会 鹿野 貞一