日本ではいつから文字が使われ始めたのでしょうか?
日本で文字が使用され始めたのは5世紀ごろと言われています。6世紀から7世紀にかけて、仏教などが入ってきたことによって文字の読み書きができる人が増えていきました。しかし、古代における文字は、全ての人が書けるものではなく、一部の人々しか使用していませんでした。今回は古代の文字に焦点をあてて紹介していきます。
発掘調査によって見つかった文字が書かれた土器は、その遺跡を考える上でとても重要な資料となります。墨で書かれた墨書土器やヘラ状のもので書かれた刻書土器などがあり、内容は地名や人名、役職など所有者に関することや、仏事や儀式に関することなど様々な文字が書かれています。
鹿嶋市の遺跡からも、文字が書かれた土器が数多く見つかっています。
厨台遺跡群は、鹿島神宮駅の北側の台地上に位置し、縄文時代、古墳時代から奈良・平安時代、中世、近世と継続的に集落や墓域が形成される複合遺跡です。谷を挟んで南側には鹿島神宮や鹿島城があり、その関係性も重要視されている遺跡です。
古代の遺構からは墨書土器や刻書土器が見つかっており、そのほとんどが坏や椀に書かれています。土器が破損していたり、墨が消えかけているものも多く、全てを解読することは難しいのですが、「宮厨」「神厨」「郡」「方」「方野方村」など鹿島神宮や鹿島郡家に関係するものや、地名に関するものが見られます。
中でも注目されるのは中臣の姓が書かれた土器です。「中臣」は須恵器の坏の裏側に朱墨で書かれています。「中臣宅成(処)」は、土師器の椀の裏側に墨で書かれています。中臣氏は、古代の鹿島郡を治めていた一族で、郡を治める郡司の役職と鹿島神宮の宮司を同じ中臣の一族が世襲していました。これらの墨書土器が見つかったことから、厨台の集落には鹿島神宮や鹿島郡家に関係していた人々が住んでおり、中臣の一族の居住地であった可能性が考えられます。
また、鹿島神宮、鹿島郡家跡(神野向遺跡)からも墨書土器が見つかっています。鹿島神宮では、「神」「神宮」の墨書土器が、鹿島郡家跡(神野向遺跡)からは、「鹿嶋郡厨」「東殿」「鹿厨」「介」「女」などの墨書土器が見つかっています。鹿島郡家跡は古代の鹿島郡の役所跡の推定地でしたが、これらの墨書土器の出土から確定され、国指定史跡となりました。
1000年以上経った現在でも読むことができる美しい文字が書かれた土器は、古代の人との繋がりを感じることができる貴重な遺物です。どきどきセンター、茨城県立歴史館の常設展に展示されていますので、古代の人々に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
どきどきセンターPRESENTS-ココロオドル鹿嶋を再発見-
鹿嶋市どきどきセンターは、鹿嶋市内の発掘調査や鹿嶋の歴史・文化を伝える事業を展開しています。全24回、鹿嶋市内の発掘調査の出土品からみえる鹿嶋の歴史や文化・食生活など紹介していきます。また、どきどきセンターの企画展や事業をお知らせします。