皆さんは「山茶碗」と聞いた時に、どんなイメージをするでしょう。山盛りに盛ることができる大きな茶碗でしょうか。
考古学では「山茶碗」というと、平安時代末期から中世の時代に東海地方で生産された須恵器のような焼き物のことを表します。上の写真にあるように灰色の器で、これはお椀です。
同じ山茶碗の裏側の写真を見ると、プツプツとした跡が高台部分に見られます。これは「籾殻」の跡で、山茶碗を整形して乾燥させる段階で、乾燥台とくっついてしまうことを防ぐために分離材として籾殻を台に敷いたため、こうした跡が見られるのです。
それでは、こうした山茶碗は東海地方のどこから持ち込まれたのでしょうか。
山茶碗の産地としてまず名前が挙げられるのが、愛知県名古屋市やみよし市などを中心に展開する猿投窯です。また、その周辺の窯跡群でも作られており、近隣では尾張の瀬戸窯や常滑窯、美濃の東濃窯、三河の二川窯などが挙げられます。このほかにも東海地方のほぼ全域で山茶碗は作られており、11世紀から15世紀にかけて継続して生産されます。
これらの山茶碗の多くが、生産された窯跡の周辺で日常雑器として使われたと考えられており、その流通範囲は窯跡の半径30㎞ともいわれています。
こうした東海地方の日用品である山茶碗が、遠く離れた鹿嶋市内でも出土しています。
出土する山茶碗の多くは尾張国の山茶碗が多いようにみられ、当時東海地方から鹿嶋地域へ人が移動してきた証拠あろうと考えられています。
では、こうした東海地方とのつながりは山茶碗しかないのかというと、そうではありません。
鹿嶋市内の奈良・平安時代の集落遺跡を発掘すると、尾張国猿投窯の須恵器や施釉陶器、三河国湖西窯の須恵器が出土することがあります。こうした存在からは、東海地方との繋がりが既に古代から見られたことが言えます。
上の写真は猿投窯でつくられた灰釉陶器の長頸瓶で、水物を保管する容器と考えられます。灰釉陶器は高級品であるといわれていて、当時としては入手することが困難な品であったといわれます。
そういったモノが鹿嶋地域でも出土している点、こうした東海地方とのつながりが中世まで続いているという点は注目されます。山茶碗からはたくさんの情報が引き出せるため、実は貴重な遺物なのです。
どきどきセンターPRESENTS-ココロオドル鹿嶋を再発見-
鹿嶋市どきどきセンターは、鹿嶋市内の発掘調査や鹿嶋の歴史・文化を伝える事業を展開しています。全24回、鹿嶋市内の発掘調査の出土品からみえる鹿嶋の歴史や文化・食生活など紹介していきます。また、どきどきセンターの企画展や事業をお知らせします。