胸をわくわくさせてきたお正月がとうとうやってきました。元旦早朝。まず一家の主人か年男が新しい手桶を使って若水を汲み、門松にかけたり、井戸神様・年徳神・神棚・氏神様などに供えたりしました(『大野村史』。若水汲みの風習はイギリス・ドイツなどにもあり)。元朝参りといって、新ぴんの下駄を履き晴れ着姿で鹿島神宮を詣でました。そして「三社参り」といって、沼尾・坂戸神社にもお参りしました。帰ってから一年で一番おいしいお節料理を頂きました。お餅は、それはそれは今の上寿司以上のご馳走でした。
子供たちは、凧上げ、羽根つき、お手玉、すごろく、ふく笑い、こま回し、ねんがらなどをして楽しみました。大人達は、年始回りや家での接待と華やいだ中にも、やや忙しそう。
二日には神官の舞太夫による謡初め(『鹿島神宮誌』)があり、宮中恵比寿・三河漫才などが鹿嶋の家々を、ことぼめしながら踊って回りました。各家ではおひねりやお米などをあげました。漁村では船祝い、農家では山入り、若木取り、椀(おう)飯(ばん)(根三田『惣大行事日記』)。七日は、七草ばやしを歌いながらたたいて作った七草粥を食べました。ご馳走を食べ過ぎたので、お腹を休める意味もあったようです。鹿島神宮では俗に鹿島様のお目ざめといわれた白馬祭(青馬祭『鹿島志』)、物忌様による御戸開き、連歌の会、恋占いの常陸帯神事などが目白押しにありました。十一日には「からーすからーす、ぽっぽけー」という鍬入れや村祈祷がおこなわれました。町家はこの日蔵開き。丁稚どんにとって嬉しい藪入りで里帰りができました。十四日にはワーホイ小屋を掛けて「オーメンテー」とはやしながら練り歩く鳥追い(粟生地区では今でも)を楽しみました。
十五日は、実のなる木に傷を付ける成木ぜめ(ドイツでは「フリッシュウントゲズント!」)をしました。木をいじめたほうがおいしい実がなるのです。十七日は般若経600巻を入れたみ輿(こし)を担いで、清水の「おでいはんにゃ(お大般若)」が家々を土足で上がり込みました。子供たちはお菓子やお餅をもらって次の家に向かいます。十八日には、神向寺や護摩堂(護国院)などで「取子」もありました。
楽しい楽しい日々は延々と十五日の「までい(仕舞い)正月」ばかりか、「二十日正月」まで続いたのです。それまで仕事はほとんどしませんでした。どうせこれからつれえ農作業の毎日がくんだあから、正月ぐれえのんびりしらっせ、と。
昔の鹿島人にとって人生で一番大事なことは仕事ではなく、人と人との和だったようです。鹿島開発後の新住民が驚きあきれた「ルーズな鹿島時間」のルーツは、こうしたゆるやかに時の流れる年中行事にあったのです。穏やかにゆっくりと楽しく過ぎていったお正月。「鹿島時間」も捨てたもんでなかっぺ。
文・写真 鹿嶋古文書学習会 鹿野 貞一