福沢諭吉は「封建遺制は父の仇」と言い、須田誠太郎は「洪水は母の仇」と言った。誠太郎は利根川沿岸の治水工事に命をかけた郷土の偉人である。
須田誠太郎は明治14年(1881)行方郡香澄村(現潮来市)で生まれた。須田家は代々庄屋や大山守を務めていた。誠太郎は7歳の時牛堀尋常小学校に入り、11歳で行方郡麻生高等小学校に入学した。15歳になると鹿島の吉川松甫(「久勁先生」)の家塾に入舎。「日本外史」などを学ぶ。東京遊学を志し、父幹三(かんぞう)の反対を尻目に、遂に夜間吉川塾を抜け出し、徒歩で上京した。18歳の時だった。
明治40年(26歳)明治大学を卒業し、吉田村の林節子と結婚。43年(29歳)8月大洪水が起き、この災害が誠太郎の人生を決定づけた。茨城県の堤防決壊66か所、死者25名、床上浸水家屋17,237戸。須田家も床上浸水が2カ月以上続き、母親千代子は心身の疲労から同年11月に死去。誠太郎のショックは大きかった。後年「洪水はわが仇なり。これと戦い、撃滅しようと決心した」と語っている。
利根川流域はたびたび洪水に見舞われた。なぜ洪水が多発していたのか。遠因は「利根川東遷(とうせん)事業」にあった。暴れ川の利根川はそれまで、東京湾(江戸湾)に流れ出ていた。徳川家康が、江戸の住民を水害から守ろうと、伊奈忠治らを使ってその流れを東に替えたからであった。江戸は救われたが、今度は新利根川流域の住民たちが洪水に悩まされることになった。
幕末に福島三春から中館広之助がやってきて放水路、「居切堀(いぎりぼり)」を作ってそれを打開しようとした。誠太郎の祖父、須田重作も水戸藩の命を受けてその難工事にかかわった。浪人や囚人たちを使って堀割はできたが、高低差が不足していたため、うまく海へ流れ出なかった。
誠太郎はそれらの歴史を学び、さらに学生時代田中正造の反足尾鉱毒運動にも参加した経験をふまえ、図面を描き陳情書を書き、霞ヶ浦対策の重要性を官・民に説いて回った。その運動の一つの成果として、大正10年(1921)横利根閘門(こうもん)が完成した。昭和13年には霞ヶ浦・北浦治水協会を設立し自ら会長となって奮闘した。昭和4年(1929)、神宮橋が開通した。その際誠太郎は、広大な須田家敷地の大半を新道造成に提供した。その間、誠太郎は大正7年(37歳)香澄村村長に就任、以後15年間村長を務める。県議会議員にも当選し、昭和30年(74歳)には牛堀初代町長に選ばれ、のち牛堀町名誉町民となった。
晩年誠太郎はうれしい体験を二つした。一つは、昭和41年(85歳)5月1日北利根川橋近くに「須田誠太郎翁治水功労顕彰碑」の除幕式が行われたが、その式に出席できたこと。もう一つは、亡くなる二日前の昭和44年(88歳)10月15日。鹿島港開港式が佐藤栄作総理大臣を迎えて挙行された。病床にあった誠太郎は喜んだ。利根川流域住民の念願である治水対策、居切堀割に寄せた執念が鹿島開港で実ったととらえたからである。自宅に紅白の幕を張り、家の内外を清め、自らも顔や口や手を拭き、枕元に紋付羽織袴を揃え、日頃懇意にしている人びと数十人を招き饗応した。共にテレビに映し出される実況中継を見入っていた。誠太郎は安心したのか、その二日後自宅にて永遠の眠りについた。
文 鹿嶋古文書学習会 鹿野 貞一