中世鹿島神宮の大宮司は「四万の蔵をたて」ていた長者でした。その下僕であった文太は、「おぬしは私の心にそぐわない」 と暇を出されてしまいました。突然の解雇に嘆き悲しむ文太。
どこというあてもなく行くうちに、角折(つのをか)の浜、塩焼く浦に着きました。そこで下積み修業をした後、独立して製塩業を興し、大成功を収めました。「旭さす夕日かがやく此里(このさと)に 黄金千倍数千倍かな」。
その大邸宅は、「金銀綾錦(あやにしき)、七珍万宝(しっちんまんぽう)数知らず、四方につくりならべたる、蔵を申すに数知らず」と、かつての主をしのぐほどになりました。鹿島神宮に祈願し、二人の娘も授かります。姉は蓮華(れんげ)、妹は蓮(はちす)と名付けられ、絶世の美女に成長します。 名前も変えて「文正つねをか」とした文太は 、二人のため、「西の方に御堂(みどう)を建て、阿弥陀の三尊(さんぞん)を据(す)え奉り」ました。やがて一家は京に上り、姉は関白の奥方に、妹は帝のお妃に迎えられ、自身も大納言に大出世を遂げました。「御命、百歳に余るまで保ち給ふほどめでたけれ」。 さらにめでたくも、百歳を越えて長寿を全うしました。
以上が「文正草子」(室町時代に作られた『御伽草子』の一つ)のあらすじです。文太(文正)は鹿島起業家の魁(さきがけ)となった人でした。でもなぜ、大野角折(つのおれ)で成功を収めたのでしょうか?
「文太が塩と申すは、こころよくて(味が良くて)、食ふ人病なく若くなり、また塩のおほさつもりもなく(はかりしれなく)三十層倍にもなりければ、やがて徳人(長者、大富豪)になり給ふ」。文太の塩は味が良くて、食べると病も治り、若返り、また塩の製造量も従来の30倍ほどにもなりました。
三つの要因が考えられます。一つはみなに喜んでもらえる味の改善。二つ目には効率の良い大量生産という技術革新。三つ目は挫折体験。かつての主、大宮司に突然の解雇通知を受けて、嘆き悲む文太。なぜ、私が……。それが苦難を乗り越えるバネになったのでした。「さりながらいづくに候ともをろかに(どこにいようとも、おろそかに)思ひ申すべからず」と、文太はそれまでに受けたご恩を忘れまいとしたのです。
鹿島灘沿岸は古くから製塩が盛んでした。9世紀の『文徳実録』にも「(鹿島)郡民海(水)を煮て塩をつくる者有り」。角折地区にある「木つけ坂」は、塩をたく燃料の松の木を馬で下った坂ですし、できた塩を「塩つけ坂」を上って鹿島古道を通って、塩釜神社(現鹿島学園西隣)に運びました。そのすぐ南は北浦に面していて、そこから船で各地に運んだといわれています。
さらに汀(みぎわ)安衛氏の調査によって、現はまなす公園の一画に文太長者屋敷跡とみられる遺構や、阿弥陀堂(出土された31個の礎石は室町期のものと判明)、庭園などが確認されました。その後、『新編常陸国誌』に「塩二俵宛大宮司家へ角折村より納め来る」とあります。私も大宮司家の鹿島則幸氏(故人、元古文書学習会長)より直(じか)に伺ったことがあります。「私が子供のころ(昭和)まで、角折の長岡家から毎年米(「塩」の聞き間違えか)一俵届けられていた」。
みなさんは文太長者のサクセスストーリーをどこまで信じられるでしょうか?