鹿行偉人伝その8~天才少年、流人、伊勢大宮司 鹿島則文~

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 鹿嶋市出身の鹿島則文は、八丈島へ3年間も流され、その後神官トップの伊勢大宮司へ登りつめた偉人です。則文は新たな日本を創るのだという、人一倍強い志を持っていました。現代日本の若者が失っている社会変革の夢や志。

明治3年 鹿島則文30歳

 鹿島則文(1839~1901)のまずは、天才ぶりを見てみましょう。5歳にして和歌を詠み、小説も読み始めていました。「(かど)の魚を干したる朝、雨の降りければ、『雨が降る 鰊を干しても つまらない あすは天気に なればよいかな』」。また、祖父のひざの上に抱かれて小説『草双紙』を読んだり、孔子の孝経』を読んでいました。外国奉行下役、河津三郎(後外国奉行)が鹿嶋に来て、面会した則文があまりにも蝦夷地に詳しいので大変驚いたことを後に、宮中村名主、栗林庄三郎に述懐しています。時に、則文は10歳でした。

 13歳になると吉川天浦先生に付き中国の古典『春秋左伝』等を学びました。江戸に出て安井息軒の塾に学んだのは22歳の時。翌年、18歳のおつると結婚しました。その後子や孫も出来、円満な家庭生活を生涯おくることができました。しかし、慶応元年27歳の時に遠島(八丈島)の刑を受けてしまいました。前年鹿嶋に来た尊王攘夷を掲げる過激の徒、「天狗党」と気脈を通じていたとの理由からでした。則文も、吉田松陰や渋沢栄一と同じ尊王攘夷の思想をもっていたのです。流人の地、八丈島で詠んだ歌、「浪荒き 沖の小島の 仮庵(かりいほ)に 物思へとや 月のさすらむ」(考えろ、お前は何をなすべきなのか、月が私にそううながしている)。へこむことなく、常に前向きな姿勢がここでもうかがえ ます。

 3年後の明治2年許されて6月13日帰国しました。驚くことには、7月1日に学問所「稽照館」を設立し校長に就任。早速、鹿島の教育刷新をはかったのです。富豪高安佐七の援助もありましたが、鹿島則文家の田畑も売り払ってその経費に宛てました。父則孝の跡を継ぎ、鹿島神宮大宮司になった後、46歳の若さで伊勢神宮の大宮司に抜擢されました。一家をあげての移住となりました。伊勢では、神宮皇学館(現大学)を創立し、「故事類苑」の編纂にも着手しました。しかし、60歳の時謎の出火に逢い内宮が類焼。則文の神道改革が急激だったので、それを恨んでの放火だったようです。則文は責任を取って辞任し、失意のうちに鹿嶋に帰りました。従四位の叙勲を受け、63歳で三笠山墓地に葬られました。

鹿島神宮二の鳥居近くの「稽照館」碑

 愛書家の則文の蔵書は3万冊余。深沢秋男先生の手を経て昭和女子大に渡り、「鹿島家文庫」として所蔵されています。丁度今年(2021)亡くなった知の巨人、立花隆も3階建ての小さなビルにびっしり3万冊の書を有していました。酒を飲まない則文は晩年次男の敏夫に次のように語っていました。「妓を求め酒を飲むは世の通例なり。予は飲を解せず、書は予の妓なり予の酒なり」。 

文 鹿嶋古文書学習会 鹿野 貞一

伊勢神宮 内宮
鹿島神宮楼門


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