鹿行偉人伝その4~型破りの教育者 峯間信吉先生~

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 「低すぎる教員の給与を上げるべきだ」「今の歴史教科書はまちがっている」と堂々と主張した現役教師がいました。神栖奥野谷出身の峯間信吉先生です。

神之池西、神柳亭の側に立つ「峯間信吉先生銅像」

渋沢栄一(NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公)がそうであったように、峯間信吉も若くして尊王攘夷の水戸学を学びました。師は潮来の宮本茶村先生でした。しかも、祖先が南朝方の懐良(かねよし)親王(後醍醐天皇の御子)のお伴をしていた武士であったこともあり、明治43年に「南朝こそ正位なり」として、尋常小学校の教科書を訂正せよ、と文部省に迫ったのでした。帝国議会でも閣議でも取り上げられ、遂に峯間先生の主張が通ったのです。

その少し前明治39年の5月でした。現役教師であった峯間先生は、茨城県主催の教育総集会で「小学校教員を優遇すべし」との持論を展開しました。小学校教員・軍の下士官・巡査の3つは、位は低いながら最も優遇されてしかるべきだ、と大声で主張したのです。文部省は烈火のごとく怒りました。先生は、東京府立第三高等女学校の教諭を首になってしまいました。しかし、先生は少しもひるむことなく、「わしは筋を通したまでだ。やがて待遇改善を図らねばならぬ時がくる」と断言。雑誌「教育壇」を発行し、その創刊号に「教育待遇上進の標語を論ず」と題して、文部省当局に攻撃を加えたのです。

神栖市立軽野小学校。右手前は峯間先生が中心となって建てた大伴家持歌碑。生徒たちはこの歌碑を知らなかった。

大正8年、行方郡で待遇改善運動の中心となっていた5人の先生方が他郡へ転向させられてしまいました。小高・行方・玉川・手賀の各小学校の3年生以上の全生徒、全職員、父兄たちおよそ600名が集まって、みな涙を流して、5人の先生を見送ったのでした。みな、何回も何回も「万歳」を叫んだそうです。それを聞いた峯間先生は、後輩の 勇気と犠牲的精神に感激し、茨城県当局や文部省に働きかけました。その結果、「私共の給料も6円アップされて、翌年から24円となった」(大川栄次氏「鹿行の文化財」)のでした。

峯間信吉先生は神栖軽野村の農家、峯間稲吉・ようの長男として生まれました(明治6年―昭和24年)。軽野小学校から、おじに学費を援助してもらい、鹿島郡立小学校高等科(後の鹿島高校)に編入し、神向寺郁之助(自費による田谷沼干拓成功者)と数学を競い合ったりして、首席で卒業しました。母校の軽野小学校などで教鞭(きょうべん)をとり、上京して大学に入りました。その後、東京商科大学(後の一橋大)教授や東京府会議員も務めて活躍しました。

鉾田市の「子生の弁天様」、厳島神社(茨城県指定有形文化財)入口に立つ「遺声 吉田松陰先生遺跡跡」。吉田松陰はこの神社を参詣し子生の旅館に泊まった。同じ尊王攘夷の志をもつ峯間信吉先生が大正4年に建碑したもの

峯間先生の不屈の精神は、少年時代、鹿島砂丘と松林の寒村で働けど働けど抜け出すことのできなかった貧しい3年間の生活の中で、培(つちか)われていったように思われてなりません。

(鈴木久弥・大川栄次・飛田寿の各氏、「鹿嶋人物事典」等参考。鹿野貞一)

文・写真 鹿嶋古文書学習会 鹿野 貞一

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